シェアハウスと掃除分担~「社会的動物」への第一歩としての~
先日の記事では、一人暮らし用のマンションとシェアハウスを比較して、シェアハウスに住むメリットを、①「社会的動物」として生きていくために大事な経験を味わえる、②ムダなことにこそ生を豊かにするための可能性が詰まっていることを感じられる、と示しました。
先日の記事は、どちらかと言うと「ザックリとした見取り図を示す」目的で書いたものなので、あまり具体的なことには踏み込めていませんでした。
ですので今回からは、先日の記事で使用した「社会的動物」・「ムダ」という言葉をキーワードに、シェアハウスに住むメリットをより具体的に検討していきたいと思います。
今回の記事は、シェアハウスにとって永遠の課題である「掃除分担」を手がかりに、シェアハウスにおいて「人」はいかに「社会的動物」になれるのかについて考えていきます。
掃除分担の難しさ・その①~家事が得意な人と不得意な人の格差
掃除を分担するうえで最初に直面する壁は、「家事が得意な人と不得意な人の格差は、想像以上に大きい」ということです。
実家にいた時に親から掃除含めた家事スキルを仕込まれた人は、実家を出てもある程度家事をやっていくことができます。しかし、実家にいた時に家事スキルをつける機会がなかった人が、成人してから家事スキルを身につけるのは容易ではありません。
その格差は掃除分担をした時に、顕著に現れることとなります。具体的に言えば、誰がどこを掃除するか割り振りしたけど、特定の場所だけ明らかに汚い。適度なやり方を知らないため、逆に毎回綺麗にしすぎてしまう (そのせいで疲弊して、今度は全然やらなくなってしまう) 。場合によっては、掃除のやり方を知らないため、何から手を付けたらいいのか全くわからない。以上のようなことが考えられます。
その結果、掃除ができる人は掃除ができない人に対して、「なんでこんなことができないの!?」という苛立ちを覚えることになります。でも怒ったところで掃除ができるようになるわけではならないので、怒りを飲み込むしかない。これは非常にしんどいことです。
掃除分担の難しさ・その②~掃除に対する意識の違い
またそれ以上に、住人の衛生に対する意識の違いが、トラブルのもとになります。
具体的に言えば、常に塵一つない綺麗な状態にしておきたいという人もいれば、物やゴミが散乱していて虫が出てきても平気な人もいるでしょう。また、物はちゃんと棚にしまっておきたい人もいれば、いつでもすぐに使えるよう外に出しておきたいという人もいます。
こういった違いは本当に人それぞれで、住人全員がピッタリ合うということはありえません。そしてその意識は、当然ながら掃除に対する意識の違いとなって現れます。掃除をする頻度に、住人ごとで差が出てしまうのです。
そして、掃除をよくする人ばかりがコストを負担することになり、あまり掃除をしない人がフリーライド (タダ乗り) する、という構図が出来上がる訳です。
一人ひとり違うということはわかっていても、いざ目の前に現実を突きつけられると少なからずストレスです。そして、掃除をよくする人はしない人に対して「もっと掃除をしてくれ」と言い、掃除をしない人は「あれこれ求めないでくれ」と反発する。お互いがお互いに憎悪を募らせ、関係がギクシャクして少しずつ崩れ始め、ちょっとしたきっかけでクラッシュする。そういったことによって消えていったシェアハウスは、表に出てこないだけで数多くあるのではないかと思っています。
管理人搾取に陥らないために
僕と同じく自主運営シェアハウスを運営しているある友人と、「シェアハウスは管理人・住人・来訪者の誰かから搾取することで成り立っている」という話をしたことがありました。
シェアハウスを運営するのは、マンションに暮らすのとは比べ物にならないくらいコストがかかるため、そのコストを誰が負担するかと言う問題が常にのしかかってきます。
大抵、それらのコストの負担は管理人に行きます。他の人に仕事を振るよりも管理人があれもこれもやるほうが効率が良いからです。そしてその結果として管理人が疲弊して、「もうシェアハウスはいいや…」となってしまいます。
では、この問題を解決するためには何ができるでしょうか?
最も手っ取り早い方法は、住人から家賃を多めに取って収益化することです。管理人から搾取した労働力を、お金で解決するということです。お金は非常に便利です。
しかしそのことは、「お金を提供することでしか、より良い生を送る手段はない」という価値観を維持・強化することにつながらないでしょうか。もちろんあらゆるサービスにはキチンと対価を支払う、という考え方は重要です。しかし、何でもかんでもお金で解決することで、人が成長する可能性を奪っているとしたらどうでしょうか。お金は便利なものですが、頼りすぎるのも考えものです。
僕が目指したいのは、「住人ひとりひとりが責任の主体となってもらう」ことによって、住人が「社会的動物」へと成長してゆく。そしてそういった人を増やすことによって、「大人」像を豊かで多様なものにしていくことです。
「社会的動物」への回路をひらく
それでは、今回のテーマである「掃除分担」を例に、社会的動物になるための術を探っていきましょう。
まず、家事が得意な人と不得意な人で格差が出てしまうという問題ですが、これは定期的に住人全員で掃除をする時間を取ることが有効かと思います。
どういう道具を準備すればよいのか、どこをどのように、どれくらいの頻度で掃除すればよいのかといったことは、なかなか一人では身につけることができません。多くの人は、実家にいる間に親の手伝いをしたり家事をする親の姿を日常的に見たりすることによって、自分なりに家事の「カン」を身に付けていくものですが、みんなで一緒に掃除をすることで、ある種の「再教育」ができるのです。
住人全員で予定を合わせるのは容易ではないですが、年に一度、大掃除だけでも十分に効果があると思います。
次に、衛生に対する意識の違いという問題ですが、これは話し合いの中で妥協点を見つけていくことが重要になってきます。
いくら汚れていても問題ないという人でも、自分の住んでいる所が汚すぎると安心して住めないでしょう。またきれい好きな人でも、「これだけは許せる」点と「これは許せない」点はあると思います。あるいは、あまりに綺麗すぎると逆に落ち着かないという人もいるかもしれません。
自分の感覚も人の感覚も大切にする。そのうえで、もしすり合わせが上手く行かなければ、棲み分けを考えてもよいでしょう。
住人ひとりひとりが責任の主体になるということは、自分を「発見」して、自分を本当の意味で大切にできるようになることではないかと僕は考えています。自分を大切にできるようになることで、はじめて人のことも大切に思えるようになり、自分がどうしたいのかもわかってくるのではないでしょうか。
おわりに
まとめると、まず掃除分担の難しさは、「家事が得意な人と不得意な人の格差が大きい」ことと「衛生に対する意識が違う」ことにありました。
そういった問題を乗り越えるための方法として、お金に頼るだけでなく、一人ひとりが責任の主体になることによって「社会的動物」になることを目指すべきであるということを今回は提示しました。そして、一人ひとりが責任の主体になるということは、自分を本当の意味で大切にできるようになることだということを明らかにしました。
もちろん、書いたことはあくまでも理想論でしかなく、現実にはもっと複雑で難しい問題が横たわっています。しかし、だからこそ挑む価値も十分にあるのではないかと思います。
マンションとシェアハウス~シェアハウスに住む優位性とは~
僕の運営しているシェアハウスふくわらいでは、4月からの新しい住民を現在募集しています。
【4月からの住民を募集します】
— シェアハウスふくわらい (@fukuwarai_0321) 2019年12月21日
現住民の引っ越しに伴い、4月からの住民を1名募集します!
「「ケ」を居場所に」をコンセプトに、日常生活から居心地のよい場所を共に作っていくシェアハウスです。
共同生活を作る楽しさを、ぜひ味わいませんか?
ご連絡お待ちしております!
これまで僕は、たびたびシェアハウスでの生活を主にTwitterを通じて発信したり、新しく知り合った人に話したりしてきました。
しかし、シェアハウスという居住形態は普通の人にとって馴染みが薄いことや、ふくわらいが「賑やかさ」や「オシャレさ」というような一般的なシェアハウスのイメージからは程遠いこともあって、反応はいまひとつだったように思います*1。
そこで今回は、一人暮らし用マンション (以下「マンション」と呼びます) とシェアハウスという2つの居住形態を経験した僕の経験から、マンションと比べてシェアハウスにはどのようなメリットがあるのかを明らかにして、シェアハウスに住むことに対するイメージを少しでも膨らませることに貢献できたらと思います。
マンションとシェアハウスは何が違うか・その①~「個人化」させるマンションと、「人間化」させるシェアハウス
マンションとシェアハウスの違いの1つ目は、マンションは人を「個人化」させ、シェアハウスは人を「人間化」させるのではないかということです。
当たり前の話ではありますが、マンションは一人で住むことを前提にして建てられています。もっと言えば、「自分の生活空間の中に他者がいることが想定されていない」ということです。
もちろんマンションでも、パーティーやら集まりやらを開催することによって、生活空間内に他者を入れることはできます。しかしそれはあくまでも「非日常」であって、デフォルトの状態ではありません。マンションは、基本的には「一人」になるためのものなのです。
また、マンションには身近な他者、いわゆる「ご近所さん」が存在しません。マンションには町内会に入っていない所が多く、当然回覧板もありません。大家さんの意向とかマンションの伝統によって住人同士の交流が活発なところもありますが、それは少数派だと思います。
このような空間は、必然的に人を「個人」にさせます。日常に他者がいないので、マンション居住者の生活は、多かれ少なかれ自分のためだけのものになります。部屋を散らかしたりダラダラしたりするだけでなく、自分の好きなもので部屋を埋め尽くしたり飾ったりするということが自由にできます*2。
この自由は、何ものにも替えがたい魅力的なものです。現に、シェアハウスをしている僕も、ふとした瞬間に「一人暮らしに戻りたい」と思う時が正直あります。しかし、あまりに一人の時間が長すぎると、人はどんどん自分の世界に閉じこもり、世界には自分の常識が通用しない他者がいるということを忘れがちになってしまうのではないでしょうか。
人はもちろん個人として尊重されるべきですが、充実した人生を送るには「社会的動物」になる必要もあります。一人で過ごすことによって「他者には他者の世界がある」ということを肌感覚で掴む機会を失うのは、長い目で見るとかなりもったいないのではないかと思います。
一方、シェアハウスは元々が一軒家なので、「自分の生活空間」というのは本来存在しません。「人」と「人」の「間」で生きる者のための空間、つまり「人間のための空間」なのです。
この「人間のための空間」では、マンションのように好き勝手なことは許されません。それぞれの構成員は「人間」として、人間集団を作るために生きる必要があります。
このことはしばしば、人に束縛を感じさせます。年末年始になるとネット上では「帰省が辛い」という嘆きや叫びが溢れかえりますが、家庭が必ずしも居場所にはならないということがよくわかります。そんな家庭から逃れて自由になりたいと思うのは、自我を持った人として当然のことではないでしょうか。
一方で、この束縛のある空間には、社会的動物として生きるために重要な要素もまた沢山詰まっています。
人と一緒に暮らすということは、必ずしも楽しいことばかりではありません。どんなに仲のよい人でも、一緒に暮らしているとどうしても許せないことや違和感が出てくるものです。ですが、そういった負の感情を自分の中に閉じ込めたままにせず、伝えるべきことはしっかり伝え合い、お互いに改善できることは改善できるように努力する。(実際僕も、住人との関わりの中で変わったところは沢山あります) 地味ですが、こういったプロセスを経験することは、人生の中で大きな経験になるはずです。あらゆる悩みが対人関係によってもたらされるのと同様に、あらゆる喜びもまた対人関係によってもたらされるのです。
しかもシェアハウスは、部屋の使い方によっては住人に個室を与えることもできます。個室では、マンションのように完全に自由とはいかないまでも、ある程度「個人」でいることができます。そのうえ、家族と違って一緒に住む人を選ぶこともできます。嫌いではない人と住みながら、人間になるための生活ができる訳です。
「個人」と「人間」のバランスが取れるのが、シェアハウスの良さと言えるでしょう。
マンションとシェアハウスは何が違うか・その②~「ムダ」のないマンションと、「ムダ」だらけのシェアハウス
マンションとシェアハウスの2つ目の違いは、「ムダ」があるかどうかだと思います。
実家が一軒家だった方は想像がつくかもしれませんが、一軒家にはムダが多いです。大きなスペースは持て余すし、いつ使うかもわからないモノを「もしもの時に備えて」ついつい買い込んでしまう、そしてそういったモノは持て余したスペースにどんどん置かれ、終いにはどこに何が置いてあるのかわからなくなる…。シェアハウスにも、多かれ少なかれそういう性質はあるのではないでしょうか。
また、町内会もムダと言えばムダです。やることと言えば年に数回の行事くらい、会議は上意下達で話し合いも何もあったもんじゃない。それでいて町会費はしっかり取られる。ムダを嫌う人にとっては、この上なく不合理なシステムです (ご近所付き合いに関しては、また記事を改めて書いてみたいと思います) 。
それに、そもそも他の人と一緒に住むということが、見ようによってはムダです。他の人と一緒に住むのは、ストレスの素になります。
そういったムダが極力省かれているのがマンションです。マンションには余計なモノを置いておくスペースはありませんし、町内会もありません。素晴らしきムダのない世界です。
ですが、ムダのない生活はそれはそれで何か物足りないものです。おそらく、ムダを排除し尽くした先に待っているのは、「生活の中にムダなものを極力入れてはいけない」という、強迫観念じみた思考なのではないかと僕は思うのです。ムダが敬遠されるこのご時世なら尚更でしょう。
それに、人はどこかでムダなものを欲するところもあるのではないかと思います。いくらムダが嫌だとはいっても、生活に遊びがないとしんどい人の方が多いでしょう。だからこそ人はスピリチュアルなものにハマるし、マインドフルネスをするし、芸術鑑賞やスポーツ観戦に行くのです。
シェアハウスには、「ムダ」が標準装備されています。つまり、自分から求めに行かなくてもムダなものが手に入るという訳です。しかも、ただのムダではありません。
シェアハウスの広いスペースは、マンションなら導入するのを躊躇ってしまうモノを買うのにはもってこいです。シェアハウスの広々キッチンは、自炊を楽しいものにしてくれるでしょう。ご近所付き合いも、孤独の解消に一役買ってくれるはずですし、顔見知りになっておくといざという時に助かります。遠くの親類より近くの他人なのです。
シェアハウスに住むことで、ムダなものにこそ生を豊かにする可能性が詰まっていることを実感できるでしょう。
ムダのない生活とムダだらけの生活、あなたはどっち?
おわりに
という訳で、マンションとシェアハウスの違いを自分なりに述べてみました。
まとめると、シェアハウスに住むメリットは①「社会的動物」として生きていくために大事な経験を味わえる、②ムダなことにこそ生を豊かにするための可能性が詰まっていることを感じられる、という2点です。
シェアハウスは可能性の宝庫です。
あなたも一軒家のシェアハウスに住んで、シェアハウスの魅力を味わってみませんか?
*1:シェアハウスに対する世間のイメージが偏っているという指摘は、京都でサクラ荘というシェアハウスを運営するホリィ・センさんによってもなされています。詳しくは「シェアハウス」に対するイメージの偏りについて - 落ち着けMONOLOG を参照
*2:騒音などで隣の部屋に迷惑をかけるという可能性はありますが
さよなら、青年期~僕がピーターパンじゃないことに気づくまで~
※この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー12日目の記事です。11日目はななしさんの「行かなくなってしまったサークルたち」でした。
軽く自己紹介
サークラ歴は約1年、まるちゃん (@marusingfire) です。今は歴史学の大学院生をしながら、大阪でふくわらい (@fukuwarai_0321) というシェアハウスの運営をやっています。今年のサークラ会誌に「ホリィ・センに影響されてシェアハウスを始めてみた話」というタイトルで寄稿しておりますので、興味のある方はぜひ。
僕は来年の3月で大学院を修了*1し、夏頃には就職のために大阪を離れる予定です。修論が終わったらしばらく暇になるので、大阪を離れるまでに1人でも多くの人と会っておきたいです。ぜひお会いしましょう。
青年から成人へ
今日12月12日は、僕の25歳の誕生日までちょうどあと2ヶ月という日だ。
25年間生きたというのは、ちょうど1世紀の4分の1を生きたということになる訳で、その長さたるや、もはや1つの「時代」といっても差し支えないくらいであろう。
だけど僕の感覚では、「こんな人生を送ってきたのに、もう25歳なんて信じられない」という気持ちが強い。本当はまだ僕は20歳くらいなんじゃないかと思う*2。
そんな僕も、来年大学院を出て就職することになった*3世間一般より長い青年期を経験して、ようやく大人になる準備ができ、名実ともに独り立ちの時が来たのである。
一度きりしかない人生の、一度きりしかない青年期を経て、僕の「アイデンティティ」は如何にして確立されていったのか。現時点での人生を振り返ることで、「自分」というものの輪郭を少しでも浮かび上がらせてみたい。
「歩く百科事典」だった幼少期~小学時代
1995年2月、僕は長野県の某病院にて生まれた。
自分の中では、最初の記憶は3歳くらいの時だったと思う。保育園で制作をしている時に、円形状に切られた画用紙に片っ端から数字を書いて、先生に怒られたという記憶がある。
自閉症スペクトラム持ちで、「他者」という概念がなかった僕は、周囲というのは常に「風景」でしかなかった。その頃からもう既に、コミュニケーションに苦労することは目に見えていたのである。
一方で、小学校に入る前から足し算や引き算はできたし、3桁の数字まで理解できていたし、どこで習った訳でもない漢字を読むこともできた。また、分厚い昔ばなしの本を読破し、話数とタイトルと話の内容を覚えたりもした。
小学校に入ると、学校のテストでは100点を取らない方が珍しかった。保育園の時点で「先取り」していた僕に、学校の勉強は退屈であった。そんな僕は図書館に向かい、いろいろな本を読み漁った。
当時はドラえもんが好きだったので、ドラえもんの探検シリーズが愛読書になった。特に恐竜や宇宙が大好物で、太古の昔のことや果てしない宇宙空間のことに思いを巡らせては楽しんでいた。
当時の僕は、「勉強」に関わるものなら何でも好きだった。日本の古典も現代語訳で読んだし*4、科学についての本も読んだし、地理・歴史についての本も読んだ。とりわけ小3で社会科が始まると、僕はその面白さに夢中になった。地図帳が僕の愛読書の一つになった。
人生の1つめの転機となったのは、小4の時に歴史マンガを買ってもらったことだった。過去のことをタイムマシンを使わなくても知ることができるということが、僕にとってはたまらなく面白かった。その本だけでは飽き足らず、学校で学習まんがを借り、偉人の伝記を読み漁り、果ては世界の歴史にまで手を伸ばした。結果的にこの経験が、僕の進路を大きく決めることになった。
これだけ勉強が好きなら中学受験をしても良さそうなのだが、当時は実家の近くに国公立の中学校がなかったため、僕は周りと同じく地元の公立中に進んだ。
「人間」になれた中学時代
中学は勉強が難しくなると聞いてビビっていた僕は、最初は予習をして学校に行くほどだったのだが、そんな心配は杞憂で中学の勉強は思っていた以上に簡単だった。
しかし、理科だけはどうしてもわからなかった。一番最初の単元が光についてだったのだが、なぜか全然理解できなかったのである*5。最初の定期テストでは、他の教科は95点以上を取ったにも関わらず、理科だけは70点ほどしか取れなかった。
その後、2年生終わり頃までは、好不調の波はあれど平均90点前後をキープしていたのだが、3年生になると今度は英語が大きく下がった。長文問題に対応できなかったのである。中学時代は全体的に、クラスが嫌いだったこともあって、あまりいい思い出はない。
だけど、部活だけは例外だった。吹奏楽部に入った僕は、そこで初めて「人と深く関わる」経験をしたのである。
1人で行動することに最適化されていた僕は、それまで友達という友達ができたことがなかった。だけど、長い時間を共にする仲間ができたことで、人の優しさや温かさを知った。時には本気でぶつかることもあったが、お互いに気持ちを伝え合うことで、人と深くまでわかり合うという経験ができた。言い換えるなら、僕は部活を通して「人間」になることができたのである。
人と関わることがこんなにも楽しくて幸せなことなのかを知ったことが、結果的に人生の2つ目の転機となった。
「溜め」の高校時代
地区トップの高校をなんとなく受けて、なんとなく合格した僕は、早速勉強で躓いた。
まず、何といっても授業のペースが速い。特に数学は、理解するより前にもう次に進んでいるといった感じで、全然ついていけなかった。中学までは「なんとなく」で通用していたのが高校では全く通用せず、最初のテストは今までに見たことのないほどの酷い点数ばかりであった。
公立の進学校には、どのクラスにも2人か3人「できる奴」がいるものである。僕らが4、50点台を取っている中、彼らは8、90点を涼し気な顔で取っていた。なんだか自分とは別世界の存在に思えた。
最初のショックからは立ち直ったものの、1年次は学年360人中50位~100位くらいをウロウロしていた。
人生3度目の転機は高2の時であった。相変わらず社会科が好きだった僕は、文理選択で文系を選んだ*6。
文系では、大好きな日本史が履修できる。僕は密かに、日本史で学年1位を取ることを目標に定めた。
それまで勉強も部活もパッとせず燻っていたが、はっきりした目標ができると俄然力が湧いた。1位を取るために、学校から指定されたドリルを徹底的にやり込んでテストを迎えた。残念ながら満点は取れなかったが、見事に学年1位を取ることができ、総合でも今までで最高の順位であった*7。
しかし、話はこれだけでは終わらなかった。驚いたことに、そこから何故か他の教科でも点数が伸び始めたのである。おそらく日本史を徹底的にやり込んだことで、「どうすれば点数が取れるのか」をなんとなくつかんだからだろう。2年次後期には現代文でも学年1位を取り、総合でも1桁順位が見えてくる程まで伸びた。
志望校を阪大文学部にしたのは、確か2年次の夏ぐらいだったように思う。先生にお勧めされた、部活の先輩に現役で受かった人がいた、関西という地に憧れがあったなど理由はいくつかあるが、一番は「世の中の多数が選ばない道を選ぶべきである」という自分の信念があったように思う。
先述した通り発達障害を持つ僕は、周りと同じようなことをしたところで「普通」の人には敵いっこないと、直観的に感じていた。東京の大学ではなく関西の大学へ、文系の花形である法・経済・商学部ではなく文学部へといったように、あえて邪道をゆくという人生の方針は、だいたいこの時期に固まったような気がする。
高校生のときは、とにかくこの狭い世界から抜け出したいと願っていた。
自分という存在が種類の乏しい価値観でしか見てもらえない苦しみ、その価値観から逸脱しようとすると叩かれて結局戻らざるを得なくなる苦しみ…学校と家だけにしか「世界」がなかった僕は、そこから抜け出したい一心で受験勉強をした。勉強している時だけは、自分が自分でいられているような気がした。
大学に行ったらあれもしたい、これもしたいという思いを、自分の中に一杯に溜め込んでいた。
日本史と英語を地道に頑張り続けた甲斐があってか、点数的にはギリギリだったものの僕は阪大に現役での合格を果たしたのであった。
「生きる」ということに興味を持った大学時代
大学に入学して、高校までの狭い世界から解放された僕は、これからの生活に胸を膨らませていた。しかし、そんな期待もあっという間に打ち砕かれることになる。
僕の勉強へのモチベーションは、「点数を取る」ことによって支えられてきた。しかし大学の勉強はそのようなゲームではない。受験勉強には「合格点を取る」という明確な目的があったが、大学の学びはそうではない。僕は自分で学ぶ目的を作り出すことが、十分にできなかったのである。*8
当初は日本史をやりたかったのだが、最初に受けた日本史の授業が全く理解できず、みるみる情熱を失っていった。一方で、教職や社会学、東南アジア史の授業は面白く、自分の興味の方向性もこの辺りで決定づけられた。
結局、専門は日本史ではなく東洋史にした。東洋史は、どの大学においても歴史学系の中では圧倒的に人気がない。そう、ここでも僕は「世の中の多数が選ばない道を選ぶ」という自分の信念を発揮したのである。しかし学部の頃は (今もあまり変わってはいないが) 、研究はあくまでも教職課程での学びを豊かにするためのツールという位置づけであり、そこまで熱心にはやっていなかった。
教職課程の授業の中で、僕は「人間が生きる」ことそのものに興味を持った。
そもそも僕自身、ものすごく生きづらかった。周りに合わせられなかったから集団で動くというのは苦痛でしかなかったし、周りと比べてできないことが多い自分はダメな人間だとずっと思ってきた。
かつては自分を責めることしかできなかったけど、幅広く学んでいくにつれて、自分の生きづらさが、社会によって作り出されていることを感じるようになった。それに、障害だけでなく、さまざまな原因によって生きづらい人がこの社会には沢山いることも知った。
すべての人が「幸せに生きる」ために、僕は何ができるだろう?色々ふらふらしながらそう考えていた僕は、とある若者支援のNPOに関わることにした。これが人生4度目の転機となった。
NPOでは高校生を対象としたプログラムを企画・運営していたが、この経験で僕が一番学んだことは、「自分が自分であることを大事にすること」「自分で自分のことを幸せにすること」だったなと感じる。
僕はそれまで、ずっと自分のことが好きになれず、自分ではない何者かになりたいという気持ちが強かった。だけど、様々な人と、「自分でも誰かのためになることができるんだ」ということを実感できたことで、ようやく自分で自分のことを認めようとする下地ができていった。
あと、この辺りを境に「自分の人生を自分で決められている」という感覚を持つことができるようになった。学校や部活、サークルといったしがらみの多い人間関係から離れ、「嫌な人」のせいで消耗させられることがなくなり、自分のことを受け入れてくれる人たちに出会えたことで、自分の価値観を本当の意味で大切にできるようになった。
正直あの団体には色々思うところもあるし、それは記事を改めてまた書きたいと思っているが、この経験が生きる基盤になったのは間違いない。
「生きやすさ」を作っていくために
修士も2年になり、ついに自分の生き方を決めなければならなくなった。
僕は4回生での教育実習以来、高校教員を目指そうと考えていた。だけど、社会科の教員として、「社会」をあまりにも知らなさすぎるという思いが強くなっていった。
一度自分なりに「社会」というものに飛び込んで、自分なりの「社会」観を形成してから教育現場に入りたい、「社会」観なしで社会科を教えるのが嘘くさいと思えてきた僕は、それまで全く考えていなかった就活をすることにした。
しかし、就活にその他のすべてを犠牲にしてまで全力を注ぐ気になれなかったこと、就活独特の雰囲気が生理的に無理だったこともあって、あっさり途中で放棄してしまった*9。
進路が決まらず、研究も行き詰まり、いよいよ人生詰んだと感じた僕は、1年間休学をすることに決めた。これが人生5度目の転機となった。
日本を放浪していたときに出会ったある方から、「今は学生だけど、30代・40代になっても今やりたいことを続けられているか、ということは考えた方がいいよ。あと、社会の構造に目を向けて、対症療法ではなくいかに社会の構造を変えていくか、という視点を持ってほしい」との言葉をいただいた。それ以降、真に社会を良くするとはどういうことかを考えるようになった。
そして、「ぼくらの非モテ研究会」や「サークルクラッシュ同好会」といった団体への参加を通して社会学やジェンダー学に触れたことで、今まで僕の中でバラバラになっていた興味関心が一つに繋がったような気がした。生きづらさとは何か、ということへの解像度がかなり高まったのである。
そして今、僕はシェアハウスを運営し、日常生活から「生きやすさ」を作っていく活動を実践している。
一口に「生きづらさ」と言っても、人によって生きづらさの要因は異なる。性別や障害といった先天的に備わった要因かもしれないし、生まれ育った環境が合わないということもあるだろうし、学校では問題なかったけど社会に出る時に苦しむという人もいるだろう。病気になったことで苦しくなった人もいるだろう。あるいは、友人や恋人関係など、人とつながれないことによるのかもしれない。
そのうち性別や障害など、「個人の努力ではどうにもできないもの」による生きづらさについては、かなりの程度世の中に認知されてきたように思う*10。しかし、例えば「人と繋がれない」ことによる生きづらさはどうだろうか。
「友達がいなくてしんどい」「恋人ができなくて苦しい」と誰かが言う時、「普通」の人は「出会いに行けばいいじゃん」「まず自分をどうにかしろよ」と思うだろう。だが、彼 (彼女) は果たしてそのような言葉を求めているのだろうか。彼ら彼女らは、「それができるなら始めからそうするわ」と思うだろう。
自分を変えるということは、それを可能にする余裕がないとできないし、そもそも心の底から「変わりたい」と思えないと、変わるのは難しい。それに、今の世の中は「自分を変える」ことに価値が見いだされがちだが、それは生きづらい人間を沢山生み出している社会を温存することに繋がりかねない。よって、生きづらさを生み出す社会構造とは何かを明らかにして、その構造を変えてゆくことが必要だと思う。
社会構造を変えようとする際には、新たなカテゴリーの生きづらさを設定して*11、社会的に認知を高めていくのもひとつの手かもしれない。しかし、それは結果として特定の属性を持つ人々を踏みつけることになってしまうことにも繋がる。ただでさえ異なる立場の人とは関わることが難しくなっているのに、さらに社会の分断を煽る動きを加速させることは避けるべきだろう。
そして1人の人の生きづらさには、複数の要因が絡まっていることも珍しくないわけで、一つの問題ばかりに焦点を当てすぎると本質を見失いかねない。
…そういったことを考えたときに、僕はただ「居場所を作る」だけではダメだと思った。すべての人間が人生で必ず経験する共同体、すなわち家族や地域社会をアップデートして、すべての人にとって生きやすい「場」にしていく必要がある。「ハレ」としての居場所ではなく、「ケ」が居場所になることの方が何百倍も重要だ。そしてその第一歩として、実家や一人暮らし以外の選択肢としての「シェアハウス」を当たり前にすることが有効であると、僕は確信している。
こうして僕は、ようやく自分が人生で何をなすべきか、大人になるとはどういうことかについて、自分なりの答えを見出すことができたのであった。
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そっか、失敗だらけの人生だと思っていたけど、結構良い人生を歩んでこれてたんだな。それが確認できてよかった。
…だけど、なんで僕はここまで「人間」に関わることがしたいと思うようになったんだろう?僕はもともと人に興味がなかったはずだ。他のありとあらゆる選択肢を犠牲にしてまで、なんでわざわざこのような道を歩んできたんだろう。
確かに、「大多数が選ばない選択肢を取る」という指針は一貫しているし、なんでそんな指針を取っているのかも説明できる。だけど、じゃあなんでシェアハウスとか当事者研究とかミュージカルとかに行き着いたんだろう。
まあ、あれこれ考えすぎても仕方がない。次なる課題は「僕自身が、いかにして親密性を築いていくか」である。
これから先、どのような世界が待ち受けているかはわからないけど、明日もとりあえず生きていこう、なんて思っちゃったりして。
*2:その原因としては、自分の成長がもともと「普通の」人よりも遅い傾向にあるということと、子どもの頃に中学を出てすぐに就職した祖父の話を聞かされて育ったことが大きいと思われる
*3:100%確定ではないがほぼ確定。
*4:ただし意味はほとんど理解できていなかったが
*5:これに限らず、物理系の分野は中学3年間を通して苦手だった。おそらく、抽象的な思考に難があったためだろう。
*6:余談だが、もしここで理系を選んでいたら僕の人生はどうなっていたのだろうと考える時がある。もしかしたら理科の面白さに目覚め、理学部に行って研究職を目指していたかもしれない。薬の名前を覚えるのが好きだったので、薬学部に行って薬剤師になっていたかもしれない。地理が好きだったので、もしかしたら理数系を差し置いて地理に関する進路に進んでいたかもしれない。何とかして人生を二度経験できないだろうか、なんて思う。
*7:なお、日本史で満点を取れたことは、テスト・模試ともに1度もなかった。95点以上は数え切れないほど取ったが、あと1問に泣かされ続けた。高校生活唯一の満点は、倫理・政経のセンター模試であった。
*8:そのうえ、文学部の周りの人達には人文系の教養に造詣が深い人が多く、高校時代に勉強と部活しかやってこなかった僕は打ちのめされることになった。社会階層というものを初めて実感した時だったように思う。
*9:余談も余談だが、この就活のために買ったリクルートスーツが、後に非常勤で役に立つことになる。本当に人生何が起こるかわからないものだ。
*10:もちろん何も問題がなくなったとは全く思わない。相変わらず社会の中には「男らしさ」「女らしさ」のステレオタイプが蔓延っているし、障害者への偏見や差別はまだまだ根強い。
*11:最近だと「キモくて金のないオッサン」が代表的だろう
もしぼっちが100人のリア充の中に入ったら ~最終話「導かれるままに、僕は舞台に上がっていた」後編~
13日。いよいよ本当の本番の朝を迎えた。
シェアハウスに一緒に泊まっていたキャストと4人で、タクシーに乗って会場へ。
朝早くに、町中から離れたやや不便な家までタクシーを手配してくれた。本当にありがたい。
前の日にあれほど感じていた不安感はもうなくなっていた。
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最初はメイク。ドーランは昨日よりもスムーズに塗れるようになった。
出来上がった顔は昨日とちょっと違って、ナチュラルな感じだった。けどこっちもこっちでいい感じ。メイクって大変だけど、いいな。
最終調整、お手伝いさんとの対面、気合い入れ…。
本番に向かって、一つ一つが進んでいく。
100日前に書いた、自分への手紙を読んだり。
100人ひとりひとりの笑顔が収められたビデオを観たり。
みんなと肩を組み合って、お互いを讃えあったり。
ああ、ここまで来れたんだ。100日前には想像できなかった景色だ。
そして、意外な人の号泣もあった。
ほとんど泣くことのない僕も、この時ばかりはもらい泣きしてしまった。
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13:00、ついに最初の公演を迎えた。
国境警備隊による挨拶が終わり、いよいよ開始。
音楽が鳴り響き、幕が上がる。
舞台に入場。客席は一杯だった。
色とりどりの照明、会場を満たす音楽、もうここはミュージカルの世界。僕は90分間だけ、この世界の住人になるのだ。
そう思うと、もはや上手くいくかどうかなんて気にならなくなっていた。
あの時初めて、僕はひとりの「演者」になれた。
自由。自由。とにかく自由!この気持ちよさは、今まで味わったことのないものだった。
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公演が終わり、観に来てくれた知人と対面。
沢山の人がいたから会えるか不安だったけど、全員と会うことができてよかった。
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次の公演まで、1時間ほど休憩時間になった。最後の休憩だ。
僕は休むのが苦手である。いろいろ考えてしまう癖があり、全く心が休まらないのだ。
どのように過ごすか思案してたどり着いた結論は、最初の頃のアクティビティで書いた、100日後の自分への手紙に対する答えを書くことだった。
100日前の僕へ
お手紙ありがとう。
あなたは今、とても不安でしょうか?僕のことだから、「これからやっていけるかな…」と不安で一杯だったのではと思います。
100日間で、仲良くなれたメンバーもいれば、あまり話せなかったメンバーもいます。お互いのことを理解し合えたかどうかもわかりません。
だけど、この100日間で、僕はとても不思議な体験をしました。
最初は馴染めなかったハイテンションな空気感に、いつの間にか馴染んでいます。もっとお互いに深くわかり合いたかったけれども、みんなと繋がれているような感覚になれている今がとても幸せです。
お互いに感情をぶつけ合い、励まし合い、触れ合った日々は、僕にかけがえのない宝物をくれました。
今、僕はこれから千秋楽です。正直もっと沢山の人を呼びたかったし呼んだけど来られなかった人もいたけど、親や友達が来てくれて100日間の結晶を共有できて本当によかった!
「ミュージカルに参加する」って決めた5ヶ月前の自分、本当にありがとう!
書き終わると、心の中が洗われたような気がした。少しだけ眠りについた。
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最後の公演。
もう二度とないかもしれない、この舞台。
100人の仲間と舞台を作れる喜びを分かち合いながら、公演に臨んだ。
スピリットが鼓動を打ち、魂が吹き込まれる。
大陸文化紹介は楽しみ尽くした。
何回やっても上手くいかなかった衣装着替えの手伝いも成功。背中を叩いて舞台へ送り出す。一緒に着替えを手伝ったキャストと、成功を喜びあった。
ソロの子の歌声が隅々まで染み渡った、コモンビート1。
前半の演技、後半のダンスとも最高に伸び伸びやれた、言葉をこえて。
ひな壇の上からみんなの様子を観察していた、みんなで大騒ぎ。
舞台裏から一緒に歌っていて泣きそうになった、コモンビート2。
戦争の前には、ポール隊で気合い入れ。
「我らの自由を守るのだ」と叫び、とにかく勝つことしか考えなかった戦争。
天に向けて、一つ一つの動きに祈りを込めたRebirth。
名もなき我が祖先よに出ていた僕の子孫は、僕のことを「自分の文化を守るために戦争に積極的に加担したことを後悔して、戦争が終わった後、戦争のことを後世に伝えるための記録に一生を捧げた」と聞いている。
練習で何度も「遅い」と注意された、リズム遊びからKeep the Beatへの移動も成功!
全ての思いを込めて歌いきった、願いをのせて、コモンビート3。
そして、国境警備隊アンコールを経て、ついにテーマソング。
これまでの思いが、どんどん溢れ出してくる。
気持ちがどんどん高まってくる。
寂しいときも、つらいときもあったけど、この100人と出会えてよかった。
最後、客席へと下りていく。最高の笑顔で歌って踊って、お客さんとタッチ。
最後の一音と共に、パーンと音が鳴り響き、四色のテープが宙に舞った。
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終わった後泣くかと思ってたけど、片付けやらなんやらで結構忙しかったのでそんな余裕などなく。打ち上げの席でも、疲れが勝っていたので、エモくなる前に寝てしまった。
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本番が終わって2週間になる。
本番の余韻から覚めた僕は、またいつもの僕へと戻った。だけど、あの濃かった100日間を終えたからには、きっと始める前とは違った自分になれているはずだ。
最初思い描いていたような結果にはならなかったし、もうちょっとコミュニケーションとか頑張ればよかったなという後悔はある。もっと喋りたかった…。
だけど、この100日間は、思いがけない宝物を僕に沢山くれた。願わくば、またいつかやりたい。
実は、最後の休憩時間中、自分への手紙だけでなく思いつきで詩も書いていた。生まれて初めての詩作だ。
10話ほど連載してきた「もしリア」の最後を、下手くそながらもこの詩で締めくくりたい。
私が自分の意志で選んだ道が
たとえ憧れの場所に通じていなくとも
その道に咲いている花が
私の心を癒やしてくれる
その花がまた次の花を咲かせることで
また癒やされる人がいる
私が好きになった人が
たとえ私に見向きもしなくとも
その人のかけがえのなさが
私の心を勇気づける
その人がこの先も生きてゆくことで
また勇気づけられる人がいる
あなたが積み重ねてきたものが
たとえ突然崩れ去ったとしても
あなたが積み重ねてきたということが
あなたの宝物へと変わる
今はそのことを信じられなくとも
わかる日がきっと来る
もしぼっちが100人のリア充の中に入ったら ~最終話「導かれるままに、僕は舞台に上がっていた」前編~
ミュージカルの本番 (12日と13日) から、早くも10日が経った。
ひとつのミュージカルを作るために全てをかけたあの100日間の日々に、僕は何と名前をつけたらいいだろう。100日間は新鮮で、しんどいことも沢山あって、でも楽しすぎて、まるで夢を見ていたかのようだ。
100日間を総括したいのだが、まだ頭の中がごちゃごちゃしてて纏まりそうにない。記憶がババロアのようにグニャグニャして、なかなか掴み取れない。
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本番直前、台風が来るか来ないかという微妙な状況だった。関西直撃は免れそうだったけど、12日に一番近づく予報に。
12日の公演が一番観に来てくれる友人が多かったので、中止にならないかどうか、気をもみながら直前の数日間を過ごした。
12日の朝は、やっぱり強い雨だった。
まだ本番を迎える準備が足りてない気がする。
エンジンが十分にかからないまま、会場に向かった。
他のメンバーも、公演ができるかどうか、ソワソワしているようだった。
最初の全体連絡。公演はできるのか、発表を緊張しながら待つ。
いよいよ発表だ。空気が張り詰める。スタッフの口が開く。
「話し合った結果、今日の公演を中止にすることに決めました。」
震える声から、無念さがこれでもかと伝わってくる。
危険だし仕方ないよなとは思ったけど、楽しみにしてくれていた友人に舞台を見せられないことが、残念でしょうがなかった。
だけど、公演が中止になったと知った瞬間、少しホッとした自分もいた。
心の準備がまだ十分にできておらず、浮足立っていた。この状態で本番を迎えても、十分なパフォーマンスを披露できる自信がなかった。
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台風が近づいてて危ないということもあり、公演以外の日程は予定通りに消化することになった。
本番は慌ただしい。ウォーミングアップ、アクティビティ、化粧、マイクチェック…やることがいっぱいだ。
とりわけ苦戦したのが化粧。まともに化粧をしたことなどないので、要領が全くわからない。
ドーランという特殊なファンデーションを一生懸命に顔に塗り込むのだが、何回やっても不合格を食らう。目許とか耳の後ろが不十分とのことだった。
4度目くらいの審査?でようやく合格が貰え、メイクをしてもらうことに。
アイラインとノーズシャドウをつけてもらった。女子はこれを毎朝自力でしているのかと思うと、敬服せざるを得ない。
出来上がった姿を鏡で見て、「なんだこの美男子は…」となった。
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公演自体はなくなったけど、遠方から駆けつけてきてくれたお手伝いさんたちのために、ゲネプロを披露することになった。
初めての会場での通し。始まる前は緊張した。
でも、色鮮やかな照明が当たった瞬間、もうここはミュージカルの世界だった。
そこでは僕はもはや僕ではなく、ひとりの登場人物であり、ひとりの演者としてそこに立っていた。
上手くいかなかったこともあったけど、舞台の世界に入り込めたことで、より一層自由な気持ちでやり切れたように思う。
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全ての日程が終わり、スマホを開く。「明日は別の用事があって……」「公演の成功を祈っています」。やっぱりいきなり振替は無理か。本当に残念だった。
でも中には「明日に振り替えました」というメッセージも。わざわざ予定変更してまで来てくれた友達もいた。本当に感謝しかなかった。
彼ら彼女らのためにやり切る。そんな気持ちを固め、ホールを後にした。