さよなら、青年期~僕がピーターパンじゃないことに気づくまで~
※この記事は、サークルクラッシュ同好会アドベントカレンダー12日目の記事です。11日目はななしさんの「行かなくなってしまったサークルたち」でした。
軽く自己紹介
サークラ歴は約1年、まるちゃん (@marusingfire) です。今は歴史学の大学院生をしながら、大阪でふくわらい (@fukuwarai_0321) というシェアハウスの運営をやっています。今年のサークラ会誌に「ホリィ・センに影響されてシェアハウスを始めてみた話」というタイトルで寄稿しておりますので、興味のある方はぜひ。
僕は来年の3月で大学院を修了*1し、夏頃には就職のために大阪を離れる予定です。修論が終わったらしばらく暇になるので、大阪を離れるまでに1人でも多くの人と会っておきたいです。ぜひお会いしましょう。
青年から成人へ
今日12月12日は、僕の25歳の誕生日までちょうどあと2ヶ月という日だ。
25年間生きたというのは、ちょうど1世紀の4分の1を生きたということになる訳で、その長さたるや、もはや1つの「時代」といっても差し支えないくらいであろう。
だけど僕の感覚では、「こんな人生を送ってきたのに、もう25歳なんて信じられない」という気持ちが強い。本当はまだ僕は20歳くらいなんじゃないかと思う*2。
そんな僕も、来年大学院を出て就職することになった*3世間一般より長い青年期を経験して、ようやく大人になる準備ができ、名実ともに独り立ちの時が来たのである。
一度きりしかない人生の、一度きりしかない青年期を経て、僕の「アイデンティティ」は如何にして確立されていったのか。現時点での人生を振り返ることで、「自分」というものの輪郭を少しでも浮かび上がらせてみたい。
「歩く百科事典」だった幼少期~小学時代
1995年2月、僕は長野県の某病院にて生まれた。
自分の中では、最初の記憶は3歳くらいの時だったと思う。保育園で制作をしている時に、円形状に切られた画用紙に片っ端から数字を書いて、先生に怒られたという記憶がある。
自閉症スペクトラム持ちで、「他者」という概念がなかった僕は、周囲というのは常に「風景」でしかなかった。その頃からもう既に、コミュニケーションに苦労することは目に見えていたのである。
一方で、小学校に入る前から足し算や引き算はできたし、3桁の数字まで理解できていたし、どこで習った訳でもない漢字を読むこともできた。また、分厚い昔ばなしの本を読破し、話数とタイトルと話の内容を覚えたりもした。
小学校に入ると、学校のテストでは100点を取らない方が珍しかった。保育園の時点で「先取り」していた僕に、学校の勉強は退屈であった。そんな僕は図書館に向かい、いろいろな本を読み漁った。
当時はドラえもんが好きだったので、ドラえもんの探検シリーズが愛読書になった。特に恐竜や宇宙が大好物で、太古の昔のことや果てしない宇宙空間のことに思いを巡らせては楽しんでいた。
当時の僕は、「勉強」に関わるものなら何でも好きだった。日本の古典も現代語訳で読んだし*4、科学についての本も読んだし、地理・歴史についての本も読んだ。とりわけ小3で社会科が始まると、僕はその面白さに夢中になった。地図帳が僕の愛読書の一つになった。
人生の1つめの転機となったのは、小4の時に歴史マンガを買ってもらったことだった。過去のことをタイムマシンを使わなくても知ることができるということが、僕にとってはたまらなく面白かった。その本だけでは飽き足らず、学校で学習まんがを借り、偉人の伝記を読み漁り、果ては世界の歴史にまで手を伸ばした。結果的にこの経験が、僕の進路を大きく決めることになった。
これだけ勉強が好きなら中学受験をしても良さそうなのだが、当時は実家の近くに国公立の中学校がなかったため、僕は周りと同じく地元の公立中に進んだ。
「人間」になれた中学時代
中学は勉強が難しくなると聞いてビビっていた僕は、最初は予習をして学校に行くほどだったのだが、そんな心配は杞憂で中学の勉強は思っていた以上に簡単だった。
しかし、理科だけはどうしてもわからなかった。一番最初の単元が光についてだったのだが、なぜか全然理解できなかったのである*5。最初の定期テストでは、他の教科は95点以上を取ったにも関わらず、理科だけは70点ほどしか取れなかった。
その後、2年生終わり頃までは、好不調の波はあれど平均90点前後をキープしていたのだが、3年生になると今度は英語が大きく下がった。長文問題に対応できなかったのである。中学時代は全体的に、クラスが嫌いだったこともあって、あまりいい思い出はない。
だけど、部活だけは例外だった。吹奏楽部に入った僕は、そこで初めて「人と深く関わる」経験をしたのである。
1人で行動することに最適化されていた僕は、それまで友達という友達ができたことがなかった。だけど、長い時間を共にする仲間ができたことで、人の優しさや温かさを知った。時には本気でぶつかることもあったが、お互いに気持ちを伝え合うことで、人と深くまでわかり合うという経験ができた。言い換えるなら、僕は部活を通して「人間」になることができたのである。
人と関わることがこんなにも楽しくて幸せなことなのかを知ったことが、結果的に人生の2つ目の転機となった。
「溜め」の高校時代
地区トップの高校をなんとなく受けて、なんとなく合格した僕は、早速勉強で躓いた。
まず、何といっても授業のペースが速い。特に数学は、理解するより前にもう次に進んでいるといった感じで、全然ついていけなかった。中学までは「なんとなく」で通用していたのが高校では全く通用せず、最初のテストは今までに見たことのないほどの酷い点数ばかりであった。
公立の進学校には、どのクラスにも2人か3人「できる奴」がいるものである。僕らが4、50点台を取っている中、彼らは8、90点を涼し気な顔で取っていた。なんだか自分とは別世界の存在に思えた。
最初のショックからは立ち直ったものの、1年次は学年360人中50位~100位くらいをウロウロしていた。
人生3度目の転機は高2の時であった。相変わらず社会科が好きだった僕は、文理選択で文系を選んだ*6。
文系では、大好きな日本史が履修できる。僕は密かに、日本史で学年1位を取ることを目標に定めた。
それまで勉強も部活もパッとせず燻っていたが、はっきりした目標ができると俄然力が湧いた。1位を取るために、学校から指定されたドリルを徹底的にやり込んでテストを迎えた。残念ながら満点は取れなかったが、見事に学年1位を取ることができ、総合でも今までで最高の順位であった*7。
しかし、話はこれだけでは終わらなかった。驚いたことに、そこから何故か他の教科でも点数が伸び始めたのである。おそらく日本史を徹底的にやり込んだことで、「どうすれば点数が取れるのか」をなんとなくつかんだからだろう。2年次後期には現代文でも学年1位を取り、総合でも1桁順位が見えてくる程まで伸びた。
志望校を阪大文学部にしたのは、確か2年次の夏ぐらいだったように思う。先生にお勧めされた、部活の先輩に現役で受かった人がいた、関西という地に憧れがあったなど理由はいくつかあるが、一番は「世の中の多数が選ばない道を選ぶべきである」という自分の信念があったように思う。
先述した通り発達障害を持つ僕は、周りと同じようなことをしたところで「普通」の人には敵いっこないと、直観的に感じていた。東京の大学ではなく関西の大学へ、文系の花形である法・経済・商学部ではなく文学部へといったように、あえて邪道をゆくという人生の方針は、だいたいこの時期に固まったような気がする。
高校生のときは、とにかくこの狭い世界から抜け出したいと願っていた。
自分という存在が種類の乏しい価値観でしか見てもらえない苦しみ、その価値観から逸脱しようとすると叩かれて結局戻らざるを得なくなる苦しみ…学校と家だけにしか「世界」がなかった僕は、そこから抜け出したい一心で受験勉強をした。勉強している時だけは、自分が自分でいられているような気がした。
大学に行ったらあれもしたい、これもしたいという思いを、自分の中に一杯に溜め込んでいた。
日本史と英語を地道に頑張り続けた甲斐があってか、点数的にはギリギリだったものの僕は阪大に現役での合格を果たしたのであった。
「生きる」ということに興味を持った大学時代
大学に入学して、高校までの狭い世界から解放された僕は、これからの生活に胸を膨らませていた。しかし、そんな期待もあっという間に打ち砕かれることになる。
僕の勉強へのモチベーションは、「点数を取る」ことによって支えられてきた。しかし大学の勉強はそのようなゲームではない。受験勉強には「合格点を取る」という明確な目的があったが、大学の学びはそうではない。僕は自分で学ぶ目的を作り出すことが、十分にできなかったのである。*8
当初は日本史をやりたかったのだが、最初に受けた日本史の授業が全く理解できず、みるみる情熱を失っていった。一方で、教職や社会学、東南アジア史の授業は面白く、自分の興味の方向性もこの辺りで決定づけられた。
結局、専門は日本史ではなく東洋史にした。東洋史は、どの大学においても歴史学系の中では圧倒的に人気がない。そう、ここでも僕は「世の中の多数が選ばない道を選ぶ」という自分の信念を発揮したのである。しかし学部の頃は (今もあまり変わってはいないが) 、研究はあくまでも教職課程での学びを豊かにするためのツールという位置づけであり、そこまで熱心にはやっていなかった。
教職課程の授業の中で、僕は「人間が生きる」ことそのものに興味を持った。
そもそも僕自身、ものすごく生きづらかった。周りに合わせられなかったから集団で動くというのは苦痛でしかなかったし、周りと比べてできないことが多い自分はダメな人間だとずっと思ってきた。
かつては自分を責めることしかできなかったけど、幅広く学んでいくにつれて、自分の生きづらさが、社会によって作り出されていることを感じるようになった。それに、障害だけでなく、さまざまな原因によって生きづらい人がこの社会には沢山いることも知った。
すべての人が「幸せに生きる」ために、僕は何ができるだろう?色々ふらふらしながらそう考えていた僕は、とある若者支援のNPOに関わることにした。これが人生4度目の転機となった。
NPOでは高校生を対象としたプログラムを企画・運営していたが、この経験で僕が一番学んだことは、「自分が自分であることを大事にすること」「自分で自分のことを幸せにすること」だったなと感じる。
僕はそれまで、ずっと自分のことが好きになれず、自分ではない何者かになりたいという気持ちが強かった。だけど、様々な人と、「自分でも誰かのためになることができるんだ」ということを実感できたことで、ようやく自分で自分のことを認めようとする下地ができていった。
あと、この辺りを境に「自分の人生を自分で決められている」という感覚を持つことができるようになった。学校や部活、サークルといったしがらみの多い人間関係から離れ、「嫌な人」のせいで消耗させられることがなくなり、自分のことを受け入れてくれる人たちに出会えたことで、自分の価値観を本当の意味で大切にできるようになった。
正直あの団体には色々思うところもあるし、それは記事を改めてまた書きたいと思っているが、この経験が生きる基盤になったのは間違いない。
「生きやすさ」を作っていくために
修士も2年になり、ついに自分の生き方を決めなければならなくなった。
僕は4回生での教育実習以来、高校教員を目指そうと考えていた。だけど、社会科の教員として、「社会」をあまりにも知らなさすぎるという思いが強くなっていった。
一度自分なりに「社会」というものに飛び込んで、自分なりの「社会」観を形成してから教育現場に入りたい、「社会」観なしで社会科を教えるのが嘘くさいと思えてきた僕は、それまで全く考えていなかった就活をすることにした。
しかし、就活にその他のすべてを犠牲にしてまで全力を注ぐ気になれなかったこと、就活独特の雰囲気が生理的に無理だったこともあって、あっさり途中で放棄してしまった*9。
進路が決まらず、研究も行き詰まり、いよいよ人生詰んだと感じた僕は、1年間休学をすることに決めた。これが人生5度目の転機となった。
日本を放浪していたときに出会ったある方から、「今は学生だけど、30代・40代になっても今やりたいことを続けられているか、ということは考えた方がいいよ。あと、社会の構造に目を向けて、対症療法ではなくいかに社会の構造を変えていくか、という視点を持ってほしい」との言葉をいただいた。それ以降、真に社会を良くするとはどういうことかを考えるようになった。
そして、「ぼくらの非モテ研究会」や「サークルクラッシュ同好会」といった団体への参加を通して社会学やジェンダー学に触れたことで、今まで僕の中でバラバラになっていた興味関心が一つに繋がったような気がした。生きづらさとは何か、ということへの解像度がかなり高まったのである。
そして今、僕はシェアハウスを運営し、日常生活から「生きやすさ」を作っていく活動を実践している。
一口に「生きづらさ」と言っても、人によって生きづらさの要因は異なる。性別や障害といった先天的に備わった要因かもしれないし、生まれ育った環境が合わないということもあるだろうし、学校では問題なかったけど社会に出る時に苦しむという人もいるだろう。病気になったことで苦しくなった人もいるだろう。あるいは、友人や恋人関係など、人とつながれないことによるのかもしれない。
そのうち性別や障害など、「個人の努力ではどうにもできないもの」による生きづらさについては、かなりの程度世の中に認知されてきたように思う*10。しかし、例えば「人と繋がれない」ことによる生きづらさはどうだろうか。
「友達がいなくてしんどい」「恋人ができなくて苦しい」と誰かが言う時、「普通」の人は「出会いに行けばいいじゃん」「まず自分をどうにかしろよ」と思うだろう。だが、彼 (彼女) は果たしてそのような言葉を求めているのだろうか。彼ら彼女らは、「それができるなら始めからそうするわ」と思うだろう。
自分を変えるということは、それを可能にする余裕がないとできないし、そもそも心の底から「変わりたい」と思えないと、変わるのは難しい。それに、今の世の中は「自分を変える」ことに価値が見いだされがちだが、それは生きづらい人間を沢山生み出している社会を温存することに繋がりかねない。よって、生きづらさを生み出す社会構造とは何かを明らかにして、その構造を変えてゆくことが必要だと思う。
社会構造を変えようとする際には、新たなカテゴリーの生きづらさを設定して*11、社会的に認知を高めていくのもひとつの手かもしれない。しかし、それは結果として特定の属性を持つ人々を踏みつけることになってしまうことにも繋がる。ただでさえ異なる立場の人とは関わることが難しくなっているのに、さらに社会の分断を煽る動きを加速させることは避けるべきだろう。
そして1人の人の生きづらさには、複数の要因が絡まっていることも珍しくないわけで、一つの問題ばかりに焦点を当てすぎると本質を見失いかねない。
…そういったことを考えたときに、僕はただ「居場所を作る」だけではダメだと思った。すべての人間が人生で必ず経験する共同体、すなわち家族や地域社会をアップデートして、すべての人にとって生きやすい「場」にしていく必要がある。「ハレ」としての居場所ではなく、「ケ」が居場所になることの方が何百倍も重要だ。そしてその第一歩として、実家や一人暮らし以外の選択肢としての「シェアハウス」を当たり前にすることが有効であると、僕は確信している。
こうして僕は、ようやく自分が人生で何をなすべきか、大人になるとはどういうことかについて、自分なりの答えを見出すことができたのであった。
-----------
そっか、失敗だらけの人生だと思っていたけど、結構良い人生を歩んでこれてたんだな。それが確認できてよかった。
…だけど、なんで僕はここまで「人間」に関わることがしたいと思うようになったんだろう?僕はもともと人に興味がなかったはずだ。他のありとあらゆる選択肢を犠牲にしてまで、なんでわざわざこのような道を歩んできたんだろう。
確かに、「大多数が選ばない選択肢を取る」という指針は一貫しているし、なんでそんな指針を取っているのかも説明できる。だけど、じゃあなんでシェアハウスとか当事者研究とかミュージカルとかに行き着いたんだろう。
まあ、あれこれ考えすぎても仕方がない。次なる課題は「僕自身が、いかにして親密性を築いていくか」である。
これから先、どのような世界が待ち受けているかはわからないけど、明日もとりあえず生きていこう、なんて思っちゃったりして。
*2:その原因としては、自分の成長がもともと「普通の」人よりも遅い傾向にあるということと、子どもの頃に中学を出てすぐに就職した祖父の話を聞かされて育ったことが大きいと思われる
*3:100%確定ではないがほぼ確定。
*4:ただし意味はほとんど理解できていなかったが
*5:これに限らず、物理系の分野は中学3年間を通して苦手だった。おそらく、抽象的な思考に難があったためだろう。
*6:余談だが、もしここで理系を選んでいたら僕の人生はどうなっていたのだろうと考える時がある。もしかしたら理科の面白さに目覚め、理学部に行って研究職を目指していたかもしれない。薬の名前を覚えるのが好きだったので、薬学部に行って薬剤師になっていたかもしれない。地理が好きだったので、もしかしたら理数系を差し置いて地理に関する進路に進んでいたかもしれない。何とかして人生を二度経験できないだろうか、なんて思う。
*7:なお、日本史で満点を取れたことは、テスト・模試ともに1度もなかった。95点以上は数え切れないほど取ったが、あと1問に泣かされ続けた。高校生活唯一の満点は、倫理・政経のセンター模試であった。
*8:そのうえ、文学部の周りの人達には人文系の教養に造詣が深い人が多く、高校時代に勉強と部活しかやってこなかった僕は打ちのめされることになった。社会階層というものを初めて実感した時だったように思う。
*9:余談も余談だが、この就活のために買ったリクルートスーツが、後に非常勤で役に立つことになる。本当に人生何が起こるかわからないものだ。
*10:もちろん何も問題がなくなったとは全く思わない。相変わらず社会の中には「男らしさ」「女らしさ」のステレオタイプが蔓延っているし、障害者への偏見や差別はまだまだ根強い。
*11:最近だと「キモくて金のないオッサン」が代表的だろう