シェアハウスと掃除分担~「社会的動物」への第一歩としての~

先日の記事では、一人暮らし用のマンションとシェアハウスを比較して、シェアハウスに住むメリットを、①「社会的動物」として生きていくために大事な経験を味わえる、②ムダなことにこそ生を豊かにするための可能性が詰まっていることを感じられる、と示しました。

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先日の記事は、どちらかと言うと「ザックリとした見取り図を示す」目的で書いたものなので、あまり具体的なことには踏み込めていませんでした。

ですので今回からは、先日の記事で使用した「社会的動物」・「ムダ」という言葉をキーワードに、シェアハウスに住むメリットをより具体的に検討していきたいと思います。

 

今回の記事は、シェアハウスにとって永遠の課題である「掃除分担」を手がかりに、シェアハウスにおいて「人」はいかに「社会的動物」になれるのかについて考えていきます。

 

掃除分担の難しさ・その①~家事が得意な人と不得意な人の格差

 

掃除を分担するうえで最初に直面する壁は、「家事が得意な人と不得意な人の格差は、想像以上に大きい」ということです。

 

実家にいた時に親から掃除含めた家事スキルを仕込まれた人は、実家を出てもある程度家事をやっていくことができます。しかし、実家にいた時に家事スキルをつける機会がなかった人が、成人してから家事スキルを身につけるのは容易ではありません。

その格差は掃除分担をした時に、顕著に現れることとなります。具体的に言えば、誰がどこを掃除するか割り振りしたけど、特定の場所だけ明らかに汚い。適度なやり方を知らないため、逆に毎回綺麗にしすぎてしまう (そのせいで疲弊して、今度は全然やらなくなってしまう) 。場合によっては、掃除のやり方を知らないため、何から手を付けたらいいのか全くわからない。以上のようなことが考えられます。

その結果、掃除ができる人は掃除ができない人に対して、「なんでこんなことができないの!?」という苛立ちを覚えることになります。でも怒ったところで掃除ができるようになるわけではならないので、怒りを飲み込むしかない。これは非常にしんどいことです。

 

掃除分担の難しさ・その②~掃除に対する意識の違い

 

またそれ以上に、住人の衛生に対する意識の違いが、トラブルのもとになります

 

具体的に言えば、常に塵一つない綺麗な状態にしておきたいという人もいれば、物やゴミが散乱していて虫が出てきても平気な人もいるでしょう。また、物はちゃんと棚にしまっておきたい人もいれば、いつでもすぐに使えるよう外に出しておきたいという人もいます。

こういった違いは本当に人それぞれで、住人全員がピッタリ合うということはありえません。そしてその意識は、当然ながら掃除に対する意識の違いとなって現れます。掃除をする頻度に、住人ごとで差が出てしまうのです。

そして、掃除をよくする人ばかりがコストを負担することになり、あまり掃除をしない人がフリーライド (タダ乗り) する、という構図が出来上がる訳です。

 

一人ひとり違うということはわかっていても、いざ目の前に現実を突きつけられると少なからずストレスです。そして、掃除をよくする人はしない人に対して「もっと掃除をしてくれ」と言い、掃除をしない人は「あれこれ求めないでくれ」と反発する。お互いがお互いに憎悪を募らせ、関係がギクシャクして少しずつ崩れ始め、ちょっとしたきっかけでクラッシュする。そういったことによって消えていったシェアハウスは、表に出てこないだけで数多くあるのではないかと思っています。

 

管理人搾取に陥らないために

 

僕と同じく自主運営シェアハウスを運営しているある友人と、「シェアハウスは管理人・住人・来訪者の誰かから搾取することで成り立っている」という話をしたことがありました。

シェアハウスを運営するのは、マンションに暮らすのとは比べ物にならないくらいコストがかかるため、そのコストを誰が負担するかと言う問題が常にのしかかってきます。 

大抵、それらのコストの負担は管理人に行きます。他の人に仕事を振るよりも管理人があれもこれもやるほうが効率が良いからです。そしてその結果として管理人が疲弊して、「もうシェアハウスはいいや…」となってしまいます。

 

では、この問題を解決するためには何ができるでしょうか?

 

最も手っ取り早い方法は、住人から家賃を多めに取って収益化することです。管理人から搾取した労働力を、お金で解決するということです。お金は非常に便利です。

しかしそのことは、「お金を提供することでしか、より良い生を送る手段はない」という価値観を維持・強化することにつながらないでしょうか。もちろんあらゆるサービスにはキチンと対価を支払う、という考え方は重要です。しかし、何でもかんでもお金で解決することで、人が成長する可能性を奪っているとしたらどうでしょうか。お金は便利なものですが、頼りすぎるのも考えものです。

 

僕が目指したいのは、「住人ひとりひとりが責任の主体となってもらう」ことによって、住人が「社会的動物」へと成長してゆく。そしてそういった人を増やすことによって、「大人」像を豊かで多様なものにしていくことです。

 

「社会的動物」への回路をひらく

 

それでは、今回のテーマである「掃除分担」を例に、社会的動物になるための術を探っていきましょう。

 

まず、家事が得意な人と不得意な人で格差が出てしまうという問題ですが、これは定期的に住人全員で掃除をする時間を取ることが有効かと思います。

どういう道具を準備すればよいのか、どこをどのように、どれくらいの頻度で掃除すればよいのかといったことは、なかなか一人では身につけることができません。多くの人は、実家にいる間に親の手伝いをしたり家事をする親の姿を日常的に見たりすることによって、自分なりに家事の「カン」を身に付けていくものですが、みんなで一緒に掃除をすることで、ある種の「再教育」ができるのです。

住人全員で予定を合わせるのは容易ではないですが、年に一度、大掃除だけでも十分に効果があると思います。

 

次に、衛生に対する意識の違いという問題ですが、これは話し合いの中で妥協点を見つけていくことが重要になってきます。

いくら汚れていても問題ないという人でも、自分の住んでいる所が汚すぎると安心して住めないでしょう。またきれい好きな人でも、「これだけは許せる」点と「これは許せない」点はあると思います。あるいは、あまりに綺麗すぎると逆に落ち着かないという人もいるかもしれません。

自分の感覚も人の感覚も大切にする。そのうえで、もしすり合わせが上手く行かなければ、棲み分けを考えてもよいでしょう。

 

住人ひとりひとりが責任の主体になるということは、自分を「発見」して、自分を本当の意味で大切にできるようになることではないかと僕は考えています。自分を大切にできるようになることで、はじめて人のことも大切に思えるようになり、自分がどうしたいのかもわかってくるのではないでしょうか。

 

おわりに

 

まとめると、まず掃除分担の難しさは、「家事が得意な人と不得意な人の格差が大きい」ことと「衛生に対する意識が違う」ことにありました。

そういった問題を乗り越えるための方法として、お金に頼るだけでなく、一人ひとりが責任の主体になることによって「社会的動物」になることを目指すべきであるということを今回は提示しました。そして、一人ひとりが責任の主体になるということは、自分を本当の意味で大切にできるようになることだということを明らかにしました。

 

もちろん、書いたことはあくまでも理想論でしかなく、現実にはもっと複雑で難しい問題が横たわっています。しかし、だからこそ挑む価値も十分にあるのではないかと思います。