自分ひとりで勝手に絶望することも、自分を傷つけてきた人たちを恨むことももうやめたい

教員採用試験に落ちた。

 

受験結果を見たところ、一次試験の筆記はかなり良い点数を取れていたのだが、面接がメインの二次試験の評価は最低ランクだった。つまり僕は、面接で弾かれたということになる。これほどわかりやすい評価も滅多にないよな、と思った。「今の君のままでは教師として失格」「出直してこい」と言われているような気がした。

 

採用試験の準備のことを反省すると、「最後の最後で踏ん張り切れなかった」ということに尽きる。一次試験の筆記は全力で取り組んだし、小論文は研究室の先輩に見ていただき、良いものが書けるように最後まで頑張った。苦手意識があった集団面接は、先生をしている友達何人かにわざわざ練習をお願いして、Zoomで練習させてもらった。友達の言葉のおかげで、先生としてやっていくことに自信も持てた。ここまでは、我ながらよく頑張ったと思う。

ところが二次試験は、個人面談・模擬授業とも、誰かに見てもらうということをしなかった。一応、どんな質問をされそうかを聞いたりはしたものの、基本的には一人でやっていた。

今思うと、他者の目からみて自分がどう見えているのかがわからないのに、まともな面接対策などできる筈もなかった。他者の目線に触れて自分の言動を修正する機会を自ら手放してしまったし、結局模擬授業はロクに準備することもなく本番に臨んでしまった。恐らく、面接官から見ても僕の準備不足はバレバレだっただろうと思う。

模擬授業にしても面接にしても、その場で上手くやれることが大切なのではない。むしろ、「上手くやろう」と精一杯努力を積み重ねる姿勢が本番で現れ、そこに受験者の人柄が見えるのだと思う。それに、「上手くやろう」と努力すれば、それなりに本番でも上手くいくものだ。そう考えると、僕は明らかに精一杯さが足りなかった。いや、精一杯さが必要なのは頭ではわかっていたけど、実行できなかった。

なぜ僕は一生懸命やれなかったのだろう。もちろん、一次試験に合格したことで安心して、気が緩んでしまったという面はある。しかし、準備とは言えない面接準備をする中で、僕はつねに心の中でブレーキをかけていたように感じた。精一杯頑張るということを、自らに禁じていた。

 

なぜそのようになったのかを考えると、20歳頃までの僕は、逆に何でも頑張りすぎるくらい頑張ってしまう性質だったことにたどり着く。それまでの僕は、勉強とかも部活とかも学校行事とかも、むしろ目一杯頑張るタイプだったのだ。

だけどその頑張りは、多くの場合「誰かに自分の価値を認めてもらうため」の頑張りだったように思う。勉強を頑張るのはテストの点数が高いことで価値を認めてもらいたいから、部活を頑張るのも自分の価値を感じたいから、行事に参加するのも価値を感じたいから。俗に言う承認欲求の塊である。

全力で頑張って報われたこともあれば、報われなかったこともあった。報われやすいジャンル (勉強が一番いい例) も、報われにくいジャンル (音楽とか恋愛とか) もあった。それらの経験を通して、僕は「頑張っても報われないこともある」ということを学んでいった。しかし僕は同時に、「頑張っても報われないのなら、もう頑張りたくない」という気持ちに、 徐々になっていった。そしていつしか、精一杯頑張ることを避けるようになり、結果つまずいて今こうなっている。

僕にとって本当に必要だったのは、自分に価値がなくても大切にしてもらえることだったのだと思う。だけど当時の僕はそれを十分にわかっていなかったから、人の承認を得ることに、おかしいほどに必死だったのかもしれない。そして「大切にしてもらいたい、受け入れてほしい」という欲求は未だに消えていない。「こんな自分でも、世の中で生きていける」ということを保証してくれる何かが欲しい。そんなものいくら願ったところで、手に入る訳ないってわかってるのに。

 

「自分はそのままでは価値がない、むしろマイナスの存在だ」という信念が、自分の中のどこかにある。その信念は、生きていく中で、さまざまな人にさまざまな心無い言葉を浴びせられたことによって徐々に形成され、今も事あるごとに自分を絶望させる。過去の嫌だったことや辛かったことを思い出して、自分ひとりで勝手に絶望してしまう。そんなことしてもいい事なんかないってわかってるのにやめられない。「わかっちゃいるけどやめられない」から、一層しんどくなっていく。そして、自分を傷つけた人たち、利用しようとした人たちに対する恨みの気持ちが止まらなくなる。こんな自分にしやがって。許せない。

おそらくそれらの言葉を言った人たちの多くは、わざと傷つけるつもりで言った訳ではないだろう。むしろ、僕のためを思って言った人もいたと思う。だけど、当時の僕には、その言葉をポジティブに変換するだけの余力を持ち合わせていなかった。僕は、降りかかる言葉の火の粉から自分の身を上手く守ることができず傷ついていった。

という訳で、自分を傷つけたり利用しようとした人間のことを未だ許せないでいるのだが、同時に、そういった人間から離れられなかったのは、僕の問題であったとも思っている。自分には価値がなく、相手が上で僕が下という感覚を持っていたからこそ、自分をいいようにする人たちの言うことを最終的には聞いてしまった。そして、聞くべきことと聞いてはいけないことを見分ける感覚を身につける機会を、自ら手放してしまったのである。

傷つけてきた人たちからは離れられたが、「誰かに傷つけられないか」という恐れは未だに消えていない。「誰かに認めてもらうために頑張る」以外の頑張り方を、僕は未だに獲得できていない。何に対して頑張るべきかを、ずっと間違え続けているような感覚がある。頑張るべきところで頑張れず、逆に頑張らなくてもいいところで頑張ってしまう。

 

ただ一つだけわかるのは、絶望や恨みが事あるごとにやってくる今の状態が、決していいものではないということだ。自分ひとりで勝手に絶望することも、自分を傷つけてきた人たちを恨み嫌い続けることも、できるならもうやめたい。でもそのやめ方がわからない。どうすればいいんだろう。