大学生のための、生きやすさを生み出すための恋愛序説②「「卒業」してこそ一人前というのは本当か?」

今回は、ズバリ「童貞」にまつわることについて、大真面目に書いてみたいと思います。

このテーマは、僕自身が長い間こと悩み続けてきたテーマですが、実は現在の社会構造とも大きく繋がった、非常に根深い問題でもあります。

 

大学生になると性の話が増えるのはよくあることですが、男子大学生の間ではとりわけそれが顕著です。

大変嫌な話なのですが、世の男性は「童貞かそうでないか」「彼女がどれだけ「いいオンナ」なのか」「何人と「ヤッた」のか」ということによって、男としての価値を競い合う傾向があります。とりわけ、童貞であることはマイナス査定に繋がりやすく、あまつさえ「童貞は人間として問題がある」という認識がまかり通っているほどです。

 

そんな社会の風潮を内面化してしまった僕は、「彼女がいない自分は人間として劣っているのではないか」「自分は人間として終わっていて、誰からも愛されることなく死んでいくのではないか」という恐れを常に抱えていました。

しかし、ここ半年辺りでそういった恐れがピタリとなくなりました。なぜかと言えば、自分の「ままならなさ」と何とか折り合いをつけて、自分を大切にするすべを少しずつ身に付けていったからかもしれません。

 

社会の風潮よりも、まず自分がどうありたいか。自分は何に喜びを感じるのか。この問いを置き去りにしたまま恋愛しても、自分を幸せにすることはできません。いくら経験人数が増えたとしても、心に虚しさしか残らず、相手の心に見えない傷をつけ続けるだけでしょう。

 

では、私たちはいかにして「一人前」「大人」になっていけばよいのでしょうか。社会構造を踏まえつつ、これから考えていきましょう。

主に男性向けの話になると思いますが、女性にとっても得るものがあるかもしれません。

 

彼女がいる=能力がある、と思い込ませる社会

 

そもそも、なぜ童貞であることは「悪」とみなされるのでしょうか?

冷静に考えたら、性経験の多寡によってその人の人間性が決まるなんて変な話でしょう。なのになぜ、性経験が人間の価値と直結して (いるように見えて) しまうのでしょうか?

 

まず大前提として知っておきたいのは、彼女がいるということが「この人には彼女を作れる能力がある、だから有能なはず」と思う人が少なからずいるということです。

「彼女を作れる能力」というのをもう少し細かく掘り下げると、女性の立場に立つことのできる心の余裕、女性をリードできる度胸のよさ、女性の人間としてのあり方を受容できる寛容さ、女性に危害を加えない優しさ、いざというときに女性を守れる強さ、あるいは安定した生活を保障する経済力、などが挙げられるでしょうか。

ただしここで注意してほしいのは、こういった能力を持っていれば必ず彼女を作れるようになる訳ではない、ということです。これらの能力を持っていなくても彼女ができる人はできます。

 

にも関わらず、「彼女がいる」ことがシグナルになるのはなぜでしょうか。これは、現代社会において求められる人間像が変化したことが大きいでしょう。

戦後数十年続いてきた終身雇用・性別役割分業が崩れ、進学→就職→結婚→出産というライフコースが自明のものではなくなったことで、現在の社会では生き残るために「能動的」になる必要性が高まっています。そしてお見合い結婚が廃れ恋愛結婚が主流になったため、彼女を作り結婚するのにも能動性が求められるようになりました。

すなわち、現在の社会は「する」こと (doing) の価値がこの上なく高まっている時代であるといえるでしょう。恋愛も、そういった価値観と無縁ではいられない訳で、彼女がいるということが、自分の価値を示すための手っ取り早い手段になっているのです。

 

なんでも就活では、業界によっては性経験を聞かれることもあるそうです。普通に考えたらセクハラなので許されることではないのですが*1、どうやら彼らの中には彼女を作れること、セックスができること=営業などの成績を稼げること、人との関係構築ができることという「常識」があるようです。

 

「彼女ができにくい」人を苦しめる社会は、誰1人として幸せになれない社会である

 

上述のような社会構造は、必然的に男性を恋愛に焦らせるよう働きます。そのうえ男性社会というのは、力のある男性による支配を温存させるために、女性を「セックス付きのママ」化して支配し、「男らしくない」男性をカーストの下位に落として弾き出すようにできています*2

 

断言しますが、この構造は誰1人として幸せにしません。

社会内での立ち位置を得たいがために「早く童貞卒業しなきゃ」という焦りによって無理矢理セックスに及ぶことは、女性を傷つけることになりかねません。また彼女ができない男性が、先輩とかに風俗に連れて行かれたり、いわゆる「童貞狩り」されたりと、好きですらない人との性行為で「卒業」することによって、性に対するトラウマを植え付けられてしまうことだってあります (女性に限らず男性も、望まぬ性行為がトラウマになることは大いにあり得ます) 。また、女性との交際に成功できなかった男性に対しては、不必要なコンプレックスを植え付け、自己否定感を高めて追い詰めてしまうことにも繋がりかねません (いわゆる「非モテコンプレックス」ですね) 。インセル事件が一時期社会を騒がせましたが、あのような事件はいつ起こっても全く不思議ではないのです。上手くいった男性も、男社会の中での立ち位置を高めるため、もっといい女と、もっと多くの人としなければと、際限ない競争に巻き込まれることになります。

結果として、みんながみんなで「争い合う」ことになってしまう訳です。

 

では、このような社会に対して、私たちはどう生きていけばよいのでしょうか?次からは、そのヒントを提示してみたいと思います。 

 

人間の能力は複雑なものである 

 

社会構造について知ったうえで、いよいよ自分のことに目を向けていきましょう。

 

まず、彼女ができやすい/できにくい属性というのは確かにあります。一例を挙げるとするならば、心のベクトルが外側に向きやすい外向的な人が有利になり、内向的な人は残念ながら短期的に見ると不利になってしまいがちです。

 

では、内向的な人は性格改造しなければいけないのでしょうか。僕はそうは思いません。内向的な人には内向的な人なりの「よさ」があります。

僕が思うに、内向的な人はじっくりと腰を据えて物事に取り組むことが得意な人が多いように思います。すぐに成果を出すことは難しくても、長い目で見た時に大きな価値がそこに蓄積されていた、なんてこともあるかもしれません。このような特徴は、家庭生活ではむしろプラスにはたらくでしょう。あと僕的には、一緒にいて安心できるのも、内向的な人が多いように思います (僕が内向的な人だからかもしれませんが) 。

そもそも、多様だからこそ人類はここまで生き残ってこれたのです。あなたはあなた「である」 (being) からこそ尊いのであって、自分を卑下する必要はありません (もっとも、だからと言って好きな相手のことを知ろうとする努力をサボってはいけません。また、「自分のあり方は正しいんだ」と自信満々に振る舞うのは、ただの見栄っ張りでしかないです。勘違いなきよう) 。

 

人間の能力というのは複雑なものであり、どのような性質がどのような効果をもたらすのか、簡単に言い切ることはできません。一見「好ましくない」と思われる性質が、誰かにとっては好ましい性質であることは十二分にありえます。ぜひ、人間の多様性を面白がれる人になってください。

 

「自分の心の中の女性」が惚れる男になろう

 

最後になりました。では具体的に、どういう人になることを目指せばよいのでしょうか?

 

まず、男同士の競争を煽り立てるようなコミュニティからは、できるだけ距離を取った方がよいでしょう。ありのままの自分を大切にしてくれる文化があるコミュニティがよいですね。

 

その上で、ぜひ「自分の心の中の女性」が惚れる男性を目指してみてください。これは、AV監督であり恋愛のスペシャリストでもある二村ヒトシ氏が提唱するものです*3

 

生物学的に男性であっても、女性的な部分というのは必ずあります。そこに気づき、どんな自分だったら一緒にいたいと思えるかを探っていってください。

「自分の中の女性的な部分がわからない!」という人は、ソシオドラマ*4というアクティビティで女性役を演じてみるのがオススメです。男性として生きていては見えなかったことに気づき、大きな発見が得られること間違いなしです。

 

皮相的なモテ論や恋愛論に振り回されることなく、つまずきながらでいいから己が道を歩んでいってほしいなと僕は思います。その経験が、必ずや自分を豊かにしてくれるはずでしょうから。

*1:あまり意識されていないことですが、男性に性的なからかいや嫌がらせをするのもセクハラです

*2:社会学者のセジウィックは、このような男性のあり方を「ホモソーシャル」と名付けました。詳しくは『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』を参照。

*3:詳しくは、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』を参照。なお、女性が逆パターンをする (自分の心の中の男性に求められる女性になろうとする) のは、自己否定に陥るのでやめた方がよいようです。詳しくは同著者『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』参照

*4:シチュエーションと役割だけ与えた即興劇を行うことによって、登場人物の心理に触れるためのアクティビティ